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練習

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初稿:2008.05.14
編集:2008.05.18
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※シャルロット編の序章です

0-00【聖女】




 夜明けにはまだ遠い時刻。
 大陸でも屈指の大国であるアダマストルの後宮は、その壮麗な佇まいに似つかわしくない様相を醸し出していた。 忙しなく行き交う使用人達の靴音が緊張感を孕んだ空気に硬質な音色を反響させている。
 そんな宮内の雑踏にさえ紛れることのない白い影がひとつ。 白金の長髪に端整な面立ち、一見、良家の令嬢と見紛う容姿を兼ね備えたその娘は、宮内の回廊に警戒の眼差しを這わせながら大股で歩を進めていた。 その身に纏った白銀の全身鎧の胸元には、大陸教でもあるメナディル正教の十字に身を絡めた飛竜の紋章が刻まれている。 それはこの女性がリュズレイ公家を護る守護騎士団(ガーディアン)の一員である事を意味していた。
 不意に女騎士の足が止まる。 どうやら目的の場所に辿り着いたようだ。

 「シャルロット様のご支度は?」

 「あっ、ミルフィーナ様!? 聖女様はただ今、身を清める為に湯浴みをなさっています」

 鎧の娘、ミルフィーナの問いに、扉の前で控えていた部屋付の侍女が慌てたように応える。

 「室内のサリマ侍女長にお取次ぎなさいますか?」

 「それには及びません。 暫くここで待たせて頂きます」
 
 ミルフィーナは首を横に振りその申し出を丁重に辞退する。 そして、侍女の横に並ぶように直立不動の姿勢をとる。 侍女は少し困ったような表情を見せると、躊躇い気味に口を開く。

 「あ、あのやっぱり……」

 侍女がそう言い掛けた時、二人が背にした重厚な扉が内から僅かに開く。

 「何を騒いでいるのですか?」

 室内から落ち着いた声と共に綺麗な白髪を後頭部で結った老女が顔をだす。

 「あっ、サリマ侍女長。 ミルフィーナ卿がお出でに……」

 若い侍女の言葉を聞くまでもなく、サリマもその傍らで佇むミルフィーナの存在に気がついたようだ。

 「ミルフィーナ卿。 ご自分の責務を常に全うしようとする貴女の真っ直ぐな忠誠心は誠に尊ぶべきものですが……」

 サリマは一拍おくと、小さくため息をつき続けた。

 「そのような物々しいお姿で後宮内を彷つかれては皆が不安になります。 騎士様方におかれましては本宮殿でお待ち頂ければ幸いです」

 サリマは優しく説伏せるよう調子でミルフィーナを諌めた。

 「……申し訳ありません。 ですが、シャルロット様の御心を慮ると、安穏と待っていることなど到底出来ません」

 ミルフィーナは僅かに視線を下に落とすとその心中を吐露する。
 
 「ミルフィーナ様……どうかお顔をお上げください。 貴女の抱かれる心痛は重々承知致しております。 それはここにいる皆が同じ気持ちだからです」

 ミルフィーナが顔をあげると気遣うように微笑む老女の姿があった。
 ミルフィーナは自らの軽はずみな行動を恥じいるように畏まる。 彼女はその場で深く一礼すると元来た回廊に向け踵を返そうとしたが―――

 「婆や……? もしかして、そこにフィーナがいるの?」

 室外の話声を聞き留めたのか、室内から凛と澄んだ少女の声が響いた。
 己を愛称で呼ぶその声にミルフィーナは弾けた様に姿勢を正す。

 「はい、シャルロット様。 リザロス湾に準備させた教会船アメナディル号の出港準備が整った旨をお伝えしたく罷り越しました」

 事実ではあるが本心ではない答えを瞬時に返すミルフィーナ。
 従来、公家の人間が船旅をする際に用いられるのは公国直属の船籍船であることが常である。 だが、今回は特別事情が違うようだった。

 「わかりました。 それと遠慮しないで中に入ってきてくださると嬉しいわ」

 ミルフィーナは一瞬の戸惑いを見せたが、サリマにも同様に促されると「失礼します」と一言発し室内に脚を踏み入れた。
 シャルロットは開け放たれた天蓋の先、水を張った黒大理石の浴槽のなかで無造作に佇んでいた。 惜しげもなく晒された美しい裸体から光の粒が零れる。

 「シャルロット様……」

 ミルフィーナの視線がシャルロットの肢体に釘づけとなる。 同性である女性を魅了する辺り、この少女が聖女の生まれ変わりだと讃えられる由縁が改めてわかるようだった。 だがその首元で奇怪な輝きを湛える翡翠石の首飾りだけが異なる彩りを少女に植えつけている。

 「フィーナ、もう少し待ってくださいね」

 シャルロットはにっこり微笑むと、憂いを含んだ紅玉色の瞳でミルフィーナを見つめる。

 「は、はい」

 我に返ったミルフィーナは、少女の裸身に目を奪われていたことを恥じ入るように俯いてしまう。
 シャルロットは軽く頭を振り湿り気を帯びた長い金髪を後ろへ流すと、床一面に敷かれた絨毯が濡れる事もいとわずに、私室と浴室とを遮る金銀糸の飾り紐をつけた垂布を通り抜けた。 そのまま、化粧台に置かれた大きな姿見の前まで来ると乳母と若い侍女を部屋に招き入れる。

 「姫様は、ご立派に成長なされました」

 サリマは水浸しとなった絨毯の酷い有様に僅かに眉を顰めたが、表面上は快くシャルロットの傍らに畏まり、少女の濡れた身体を手にしたシルク織りの布で丁寧に拭取っていく。

 「婆は、このまま時間が止まってしまえばよいとなんど思ったことか……」

 姿見に映し出されたしみや疵の一切見当たらない白い裸身。
 サリマは慈愛に満ちた瞳で少女の成長を、どこか物悲しく見つめ呟いた。

 「それは無理だわ、人は成長するもの。 それはわたしだって例外ではなくってよ。 婆やはわたしが大人になることが嫌なの?」

 「滅相もございません……。 姫様のご成長は婆の誇りでもあります」

 シャルロットは首元で鈍い輝きを放つ宝玉を指先でそっとなぞると、

 「もうすぐわたしはこの古き慣わしから解き放たれて自由になるの……。 それはきっと他の何よりも素晴らしいことだわ」

 ―――シャルロット・アルジャベータ・リュズレイ

 その名と共に少女はメナディエルの古き信仰に呪縛された。
 それは彼女が世界に生れ落ちて最初に背負った宿命でもあった。

 アルジャベータとは、聖剣戦争の折、神の器としてその身に女神を降臨させ、邪悪を打ち払った聖女の名である。 メナディエルの教義が統べるこのバールペオル大陸において、アルジャベータは畏怖と崇敬の対象として信仰されている。
 そして、アルジャベータの『名』と『力』は代々、その直系でもあるリュズレイの血筋のなかでも、第一嫡女にだけ受け継がれるものとされていた。
 シャルロットは生後間も無く、その身に宿る聖女の『血』と『力』を守る為、聖霊環、別名【霊環アシュタリータ】と呼ばれる神聖具で拘束された。 それから今日まで、古来より続く慣わしに従い、俗世との接触を完全に絶たれ育てられたのだ。 教会祭事の執行や公国の式典など、特殊な行事を除けば、近親者と一部の忠臣、敬虔なメナディエル教徒以外の人間は、その姿を見ることさえ禁忌とされていた。
 此度の旅路は、教皇庁で執り行われるアルジャベータ聖誕祭に於いて定められた役割を担う為のものだった。 聖誕祭とは聖霊祭、収穫祭と並ぶメナディエル三大祭祀行事のひとつである。 そして、今回の聖誕祭にはシャルロットにとっては特別な意味がある。 それは、間も無く訪れる十六度目の聖誕節に於いて、成人の儀を迎えるシャルロットは、その最終日に執り行われる脱環の儀に於いて聖女としての役割を終えるからである。 
 それは少女が不自由な籠姫としての拘束から解かれることと同義であった。

 「ただ婆は心配なのです。 姫様が考えているほど外の世界は優しさや美しさに溢れたものではありません」

 サリマはシャルロットの長い金髪を頭部の両側で丸めると、それを丁寧に捻り合わせ結い上げていく。 老婆の抱く不安はミルフィーナの危惧するところと同質のものである。 俗世と隔絶されて育てられたこの純粋な少女が、ひとりの人間として初めて世界と触れ合うことになるのだ。 周囲の人間からすれば心配するなと言うほうが無理というものだった。

 「それくらいは理解しているつもりです。 でも、ようやく自由の身になれるの。 皆、もっと喜んでくれてもいいのに……。 勿論、リュズレイの古い慣わしや、教会の教えを蔑ろにするつもりではないけれど……」

 シャルロットは拗ねたように少しだけ唇を尖らせる。 湯に中てられて僅かに赤みを帯びた少女の肌が更に紅潮したようにみえた。

 「皆、それだけシャルロット様の事をお慕い申しあげているのです。 だからこそ、喜びよりも先に不安が立ってしまうのです」

 今までじっと沈黙を保っていたミルフィーナが口を挟む。
 しかし、ここ数日幾度も繰り返されていた問答に少女は気分を害してしまったようだ。 シャルロットは己の裸体から丹念に水滴を拭き取っていた侍女達の手を唐突に振り払うと、そのまま誰の助けも借りずに普段より幾分大人びた装いの下着を纏ってしまう。 それは、常に身の回りの全てを侍女達に任せ、自らは最低限の所作しか行わなかった少女の無言の抵抗であった。 自分が独りで生きていけるという類の意思表示でもあったのだろう。
 だが、その儚い反抗心も豪奢な天蓋のついた寝台に視線を移した所で停止してしまった。 そこにはまるで朝露に輝く薔薇を模したように、美しいきらめきが散りばめられたベルラインのドレスが広がっていた。 さすがにこのドレスを誰の助けも借りずに着ることは出来そうになかったからである。

 「姫様……。 奥方様のお言葉をお忘れですか?」

 サリマは少女の自尊心を刺激しないよう言葉を選びながら語りかける。

 「……」

 シャルロットは憂色を湛えた吐息を漏らすと、そっと胸元でメナディエルの聖印を切る。

 「ごめんなさい。 そうですわね……、わたしは独りよがりでした」

 最初は独りごちるように、続けて自分自身に言い聞かせるようにシャルロットは呟いた。

 「シャルロット様のお気持ちは察するに余りあるものです。 ですが、ここに居る者達は何時如何なるときもシャルロット様の味方です。 それだけは忘れないでくださいませ」

 「ありがとう婆や……それにフィーナ、あなた達も……それと―――」

 シャルロットは微かに頬を染めてサリマに微笑みかけると、老婆の額にそっと接吻をする。

 「婆やはわたしにとって良き友人でもあり、ソフィアお義母様と共に母親代わりでもあった大切な人。 それ以外の言葉は必要ありませんわ」

 「……姫様、卑しい奴隷あがりの身の上には勿体無い……」

 シャルロットは言葉を詰まらせたサリマの手をとると、安心させるように強張る両手を優しく包み込む。 だが、自らの言動に多少照れくささを感じたのか、それらの感情を誤魔化すように慌てた様子で小さな肩を旋廻させる。

 「でも、このままでは風邪をひいてしまいそう。 早くドレスを着せて欲しいわ」

 「はい、シャルロット様」

 シャルロットの言葉にサリマは嬉しそうに微笑むと、少女の丸みを帯びた腰に手を回しコルセット巻きつけ紐をきつく締める。 次にクリノリンの鐘型フレームにより膨らみを維持したペティコートを少女の頭から被せて腰元で固定する。 最期に紅色のオーガンザのドレスを着付ける。 その手際の良さは、手練の着付け師も舌を巻くほどのものであった。

 「婆や……ごめんなさい。 貴女を困らせるつもりはなかったの。 でも、わたしは大丈夫です。 それに、わたしの傍らにはいつもフィーナがいてくれる」

 シャルロットはドレスの背を飾る小さな真珠の釦を器用にはめるサリマの指先の感触を心地よく感じながら、部屋の隅で畏まるミルフィーナに視線を送る。

 「不肖ながらこのミルフィーナ・ド・グラドユニオン、御身を守るためご同行させて戴きます」

 「ありがとう……」

 シャルロットは何処か安堵したように深く息を吐いた。



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